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このページは地獄猫さんが製作したプラモデルを紹介するページです。

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中島飛行機(1)


中島飛行機(2) 九七式戦闘機

うぴょ!地獄猫です。

遅れに遅れているお題「中島飛行機」ですが、なんとか第2回にこぎつけました。

いや〜、言いだしっぺのくせに原稿書かんで遊び呆けていちゃいかんなぁ、と思いつつもつい彼女に頼まれてミニ四駆のボディの塗装をしたりして、すっかり遅れてしまったのでした(笑)(ブースカさんスミマセン)

さて、前回は中島飛行機の第一回という事で、おおまかな中島飛行機の歴史なんかをやってみましたが、今回からいよいよ個別の機体についてのお話&プラモの製作です。

今回は、キー27「九七式戦闘機」です。

九七式といえば、なんと言ってもノモンハン事件(昭和14年)でのソヴィエト軍との空戦でソ連空軍を圧倒し大勝利を挙げた名機として有名ですね。

長らく外国機の購入、国産機にしても外国人技師を招いて設計を依頼するなど欧米先進国の技術を学び吸収していた日本の航空産業も、1930年代に入って、日本人の技術者が大きく力をつけ、設計から生産まで全て日本人自らの手で行えるようになりつつありました。真に日本人に合った個性的な航空機が生まれる基盤が出来上がったのがまさに1935年(昭和10年)頃のことです。

この頃、すでに欧米の先進国では、複葉羽布張りの機体構造から、全金属製低翼単葉機へと大きく航空機の技術的進歩があり、日本でも、その時流に乗り遅れまいと昭和10年、中島、三菱、川崎各社に対し、時期主力戦闘機の試作を命じたのでした。

試作番号は中島がキ−27、三菱キ−33、川崎キ−28が与えられ、3社のし烈な試作機競争が繰り広げられたのですが、この試作機競争で2社を押し分けて次期主力戦闘機に採用されたのが今回のテーマであるキー27、後の九七式戦闘機です。

中島は、試作命令の前から自主的に新技術を取り入れた試作機を製作(中島PE実験機)するなど、社運をかけてこの試作機競争に臨んだのですが、その結果日本の戦闘機乗りが惚れ込むような素晴らしい格闘性能(=運動性、旋回性能)を持った戦闘機が誕生したのです。

このトライアルを戦った川崎のキ−28は川崎お得意の液冷エンジン搭載の高速機だったのですが、「重戦」的性格の戦闘機だったため、脱落、また三菱のキー33は、後に海軍で九六艦戦として採用されている機体のマイナーチェンジで性能的にも素晴らしい機体だったのですが、三菱の陸軍への不満や「海軍のお古はいらん!」という陸軍のメンツ(笑)の為に不採用となりました。この点、試作機競争にかける熱意とパイロットの戦闘機に対する要求を徹底的に研究するという中島の努力が実ったと言えます。

さて、このキー27、左右の主翼を胴体前部と一体構造とし、それに後部胴体を取り付ける事によって、重い主翼と胴体の接合ボルトを不要にするなど、徹底的な重量軽減と(この方法は以後の中島戦闘機のみならず三菱の零戦にも採用されました)翼面荷重88kg(ちなみに後のキー44二式単戦「鍾馗」は180kg(!)実に2倍近い!)という軽飛行機並みの数値によって、空前絶後の格闘性能(=運動性、旋回性能)を生み出す事に成功しました。運動性、とくに旋回性能については、低翼単葉機としては、後にも先にも九七式を超えたものは無いというほどの素晴らしさで、まさに「究極の軽戦闘機」という言葉がピッタリです。

陸海軍を問わず、日本の戦闘機パイロットにとって「戦闘機の命は格闘性能」であり、軽快な旋回性能を有するキー27は前線に登場するやいなやパイロツト達から絶賛されたのでした。

97式戦闘機の名を伝説的なまでに高め、その後の日本陸軍航空部隊の運命さえ左右したのが昭和14年(1939年)の「ノモンハン事件」です。当時の満州国と外蒙古の国境の小さな村で勃発した国境線を巡る小競り合いはそれぞれの国のバックに付いている大国、すなわち日本とソ連の局地戦闘へと発展したのでした。ノモンハン事件では、陸戦では火砲の射程距離の差、戦車などの機械化の差がものを言い、日本軍の全滅に近い大敗北で休戦となりましたが、空戦では、ソ連の主力戦闘機「I−16」「I−15」を九七式戦闘機が圧倒、戦闘前半でのソ連軍と日本軍のスコアは10対1というスゴいものだったといいます。

この戦闘で、ソ連軍の主力戦闘機となったのは、I−16です(写真)。あ〜、ちなみにこれはマッチボックスのキットでして、ご覧の通りグチャグチャです(笑)パーツも隙間だらけ・・・・。塗装も適当。シャレでオモチャ代わりに作ってホコリだらけでしたが、今回の原稿のために引っ張り出してきました。現在は「I−16」はハセガワから新金型で究極の出来のキットが出ていますので、作るならこれですね。でも、マッチボックス製の2倍近い値段です(念のため)。

この飛行機は、世界初の低翼単葉で引き込み脚を装備した戦闘機で、最高速度は455km/h、武装は7.62mm×2、20mm×2という強力なもの。典型的な「重戦」部類に入る機体ですね。

そう、ノモンハンの空戦は「軽戦」対「重戦」の戦いだったのです。高速度、重武装を誇るI−16を九七式戦闘機は巧みに格闘戦へと引きずり込み神秘的なまでの旋回性能を存分に発揮し、後ろに回り込み撃墜するというのが前半戦のパターンでした。後の太平洋戦争初期の日本軍と米英軍の対日戦もそうでしたが、まだ2機のペアでの一撃離脱戦法という、重戦の威力を最大に発揮できる戦法が確立していなかった当時は、運動性(特に旋回能力)に大きく劣る機体で、日本機に格闘戦を挑み撃墜されるケースが多かったようです。

ソ連軍ではあまりにI−16の損害が多い為、現地で防弾鋼板を加工しコックピットの座席後方にとりつけるといった応急改造を行ったとか・・・・・・・。これなど、97式戦闘機に背後を取られて攻撃される事を前提としての改造といっても良く、まさに97式戦闘機との格闘戦にはまったく歯が立たなかったといってもいいと思います。

また、新型機を装備し大いに暴れまわった日本のパイロツト達は、97式戦闘機に限りない信頼をおき、また格闘戦への自信を深めていったのでした。しかし、このことが後の日本の戦闘機の「軽戦万能論」を絶対のものとし、速度性能の不足、弱武装、軽装甲といった日本機の弱点となって自信にはね返ってきたのは皮肉な事です。あまりに97式戦闘機が軽戦として素晴らしい機体だったために、後継機の方向性を誤らせてしまったという点で、「帝国陸海軍機軍用機ガイト」(新紀元社)(あたしの座右の書です(笑))のなかで、著者の安東亜音人氏九七式を「禍根を残した名機」と称しているのはまさに的を得た表現だと思いますね。

実は、ノモンハンの空戦でも日本軍の圧倒的な大勝に終始した前半戦に比べ、後半戦ではソ連空軍が勢いを盛り返し10対1だった損害率も3対1程度までになっていたといいます。これは、ソ連側が97式との格闘戦を避け、急降下でのゲリラ的な一撃離脱戦法に徹してきたこと、常に部隊をリフレッシュし負けた部隊を後方に下げ、次第にモスクワに近い精強な部隊が前線に登場してきたこと、(これに対し、日本軍は常に同じ部隊で戦っていた)等の理由があると考えられます。特に、急降下での速度を生かしての攻撃には速度に劣る九七式は追いつく事が出来ず受け身の戦闘を強いられるようになったといいます。

日本のパイロット達の一部には、この苦い経験から「速度も有効な武器である」という重戦的思想が芽生えたのですが、主流になることはありませんでした。ノモンハン事件後半戦でのこうした九七式の勢いの衰えから得た教訓は、前半戦の大勝の記憶にかき消されるが如く、後の日本の戦闘機開発に生かされる事はなく「軽戦絶対」の思想だけがはびこる事となったのです。

ただ、後に登場するキー44二式単座戦闘機「鍾馗」だけは、このノモンハンでの教訓に目を向け「重戦的思想」で作られた唯一のケースではないかと思ってます。(この点については後にキー44の回でやりたいと思います)

さて、キットの紹介ですが(ふう、やっと入れた〜(笑))

ハセガワの九七式戦闘機です(1/72)。このキットはけっこう金型が古いためか、定価700円と現在の新作キットと比較すると安いのがいいですね。

出来の方は、パーツ全体がやや厚めでヤボったい感じがしますが、特に問題点もない組み易いキットです。クリアパーツの透明度や各パーツの合いも良好です。脚も固定脚なのでその気になれば一日で出来てしまいそうですね。

今回は、アンテナ柱を例によって真鍮で自作した以外は手を加えてません。そのかわり、ちょっと塗装に凝ってみました。なんといっても、九七式戦闘機と言えば華麗な塗装が多い!後の陸海軍からはちょっと考えられないくらい、ハデなものが多いのが特色です。胴体側面に大きく伸びるイナズマ模様、カウリングから胴に伸びる赤塗装、赤、青、黄等の原色の派手な胴帯等々・・・・・・。基本塗装が灰緑色なだけに、こうした派手なマークが際立ちます。なにか、第一次世界大戦のエース達の機体みたいですね。

97式戦闘機を作る際の楽しみは、なんといってもこのハデな塗装を再現する事ですね。今回は、独立飛行第84中隊の機体を再現してみました。(昭和14年7月〜8月広東)独立飛行84中隊はあの有名な(といっても知らない人が多いかも?(笑))名門、飛行64戦隊の人員を基幹として編成された部隊で、いわば64戦隊の「分家」といってもいい部隊のようです。カウリングから胴体側面を貫く赤塗装がムチャクチャ派手ですね〜。これは飛行64戦隊の伝統を引き継いだものです。

ちなみに、飛行64戦隊とは、「エンジンの音〜轟々と〜」でおなじみの「加藤隼戦闘隊」のことです。この歌は64戦隊の隊歌でして、曲中に「〜胸に描きし赤鷲の印は我らが戦闘機」とありますが、この赤鷲とは、64戦隊のエンブレムでして、キ−43一式戦闘機「隼」に機種改編してからは尾翼の矢印マークになりましたが、97式戦闘機には操縦席側面にこの赤鷲マークが書かれています。今回製作した作例も赤鷲マークがしっかり付いていますね。(手書きなのでちょっとヘタ・・・・)まさに、これ以上華麗な塗装はないという感じですね。ちなみに、この赤塗装は後の二式単戦による空対空特攻隊「震天制空隊」の飛行第47戦隊の塗装として復活してます。

デカールは当然ついていないので、赤塗装はマスキングで自分で塗装します。

けっこう上手く仕上がりました!

また、胴体と主翼上面のラインも同様にマスキングで塗装

コックピット側面の「赤鷲」マーク、と垂直尾翼の機番号は、透明デカールにアクリル絵の具で手書きしたものを貼っています。これは苦労しました・・・・・・・・。(もともとレタリングとかはニガテなので・・・・)でも、この方法がベストだと思います。

当時の写真をみると、97式戦闘機はほとんどと言っていいくらい塗装のハゲがみあたりません。後の太平洋戦争の日本機は塗装のハゲが一種のトレードマークという感がありますが、これはまだ戦局的に余裕があり塗料も質の良いものを使っていたせいかな?という気がします。また、97式の塗装はけっこうツヤがあるのですが、作例はかなり艶なし塗装になってしまひました・・・・・・・これは失敗。フラットベース入れすぎた(笑)まあ、上出来とは言い難いですが、こんなもんでしょ(適当だなぁ)

それにしても、ノモンハン事件でのライバルI−16と比べると、その設計思想の違いが一目瞭然ですね。

今回は、異様に文章が長くなってしまひました。

次回はついにキー43一式戦闘機「隼」です。

現在製作中!

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